一日につき千文字くらい

一日につき千文字くらい

『が(格助詞)』#4

一番初めのノート、『雑文』#1に示したように、単語(品詞問わず)の「品詞問わず」に食い込んでいこうと。そもそも、わざわざカッコ書きで条件付けした一番の理由はこいつ『が(助詞)』にある。いっつも心に引っかかるーー方々で見かける文で例えば“絵が描きたい”などーーその格助詞『が』である。

今回、千文字書くよりも端的に「どれぐらいの人が気にして・気にしていなくて、気をつけているのか」を知りたい、というと反響待ちになるので微妙なんですが、「わたし結構気にしているんです」って意見表明ですと言えば適当かなと思って書き連ねてまいります。そして、大風呂敷の幻影を見せるような気持ちなんですが、“日本語レトリックの妙味の基礎”の一角をこの格助詞『が』が担っているんだと信じている面があります。詳しく国語的な正しさは各自別途。それでは。

“文章が書きたい”。このツイートを見かけたのが数日前で、なかつかくんのものだったと思う。この文について言えば、それほど違和感はなかった。それでも当然、意識に引っかかるものではあった。文の構造から言えば、先の一文は「文章を書きたい」でも構造的には間違いではない。私は頻繁に「“が”ではなくて、“を”でいいんじゃないのか?」と思うタチなのだ。ただ、先のツイートに関して違和感が弱かったのは、なかつかくんが“文章”に対する強い情を持っていることを知っているから。格助詞「が」が示したのは、彼が「書きたい」と求めたのが「文章」であること。もし仮に“文章を書きたい”とツイートされていたら私はその一文を覚えていなかったかもしれないし、この千文字ノートも先送りになっていたかもしれない。「あぁ(文章をと書かれていたとしても実際はおそらく)何でもいいから何か書きたいんだな」と思ったそのまま。なんかなんでもいいから「書く、そのことをしたい」だけなら、Twitterで何かしらを書いてツイートするだけでそれは達成されているはずで、意に留めるものじゃない。さて。書くうちにだんだんとこのノートの意図がぼやけてくる。私が意に留めたのが「なかつかくんの文章」が気になるからなのかもしれない、と。そうかもしれない。「“を”って書かれていても、なかつかくんのツイートだったら“文章”ってだけで意識に留めたんじゃない?」と言われたら反論しきれる自信は無い。とはいえ。「格助詞『が』についての文章が書きたい」気持ちは変わっていません。続けます。

建築設計をやっているとき、折に触れて痛感させられた/したのが「自分は本当に建築家的“意志”に基づいた建築設計がやりたいのか」ということ。物件に対して「どうすればよいか」を考えるときに私が無意識に使っていた構文は「わたしは、こう(設計)したら良いと思う」というものだったと思う。これは振り返ってのことで、事実口にして使っていたかは不明。ただ、「わたしは、こう(設計)するのが良いと思う」と明瞭に言えたことはあっただろうかと、苦々しく回顧する。所長には本当にお世話になった。「こうしたらいいと思います」と話す私に、深い視線と「本当に?」という問い直しを与えてくれた。格助詞『が』が与える「意志の力」は、文章に書かれる姿を遥かに超えて強い(次元が違うんだ。そりゃあそうだ)(…本当に?次元が違う?)。

ここまで書いてきた文章では「〜したい」という希望の文脈で使う“が”と“を”を対比的に書いたものの、助詞のニュアンスは人によってかなり違うから物凄く偏った意見のではないかと思えてきた。

 

ここまで書いて、たまらなくなって3つほど、検索して上位に出た下記リンクのブログ記事と論文を読んだ。

2つ目は私の見立てに近いが、1つ目と3つ目はフラットながら、1つ目に関しては“を”の方に希望の強さを捉えている。

http://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/38482/blogkey/1302634/

http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/503235/489055/58797922

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/599/599pdf/higasiya.pdf

 

煩雑になって終われなくなってきたので、締めくくりにひとつ。時折ツイッターのタイムラインで見かけるある呟きは、私に一切の解釈をさせない。

“ sushi tabe tai ”

手も足も出ない。

 

#が #171219