一日につき千文字くらい

一日につき千文字くらい

『通学路』#5

なんでこれをテーマにしようと思ったのかカッコいい理由づけもなく、玄関出てふと、「左に進んでも右に進んでも、途中までは小中高の何かしらの通学路と同じなんだよな」と思ったんです。通学って熟語は使うことなく通勤になって数年経ちますが。

もっとも活発で愉快だった通学路は、やっぱり小学生のころだったんじゃないかな。家からは今の足で徒歩10分弱。西門と東門がこどもの通用門で、それは正確な真西・真東でもない。そのうちの西門へと向かう、東向きの通学路、ほぼ一本道。家を出た少しのところで集合して、緑のおばさんが渡らせてくれる道を渡れば交通量は特に多くない。そもそも、緑のおばさんって普通名詞ではないのかな、少し交通量の多い道をこどもが横断するため、旗と笛とで“信号”をやってくれていた。その道を横断したあと、記憶に残っているのは影踏み鬼をしながら学校に向かったこと。ふだんキャッキャと喋りながら歩いていたけど、体育かなんかの時間にその遊びをやったあとに流行った。ちょうど正面から朝日が照るので、影は鬼が踏みやすい方向に出る。右へ逃げたり左へ逃げたり、頭の影を踏まれそうになればしゃがんでみたり。とにかく、あのころの通学路は道幅いっぱい占めていた。

中学にあっては方向が90度ばかし変わり、家を出てからは南に歩く。商店街をひたすら歩くのだけど、アーケードはなく特段の歩行者通路もない。交通量はまあまあ多い。チェックポイントっていつから意識したんだろう、交差点を認識したころかな。ファミマ、根岸んち、梅の湯、、少し折れて学校にあたったら、行きは柵沿いに歩いて門へ。帰りは門からまっすぐ出て少し歩いて、商店街にぶつかる。かなぎん、精肉屋(というより、店先で出してる炭火焼き鳥の匂いが部活帰りにはつらく、焼き鳥やとしてのイメージが強い)、そして梅の湯、…っと行きの通学路に重なる。雨の日の室内練、校舎内を走って筋トレを一通りやって帰るのがだいたいいつもの感じだったんだけど、なぜか、なぜか夏の休日昼の雨の場合、必ず帰り道の残り300メートルでお腹をこわした。あれはなぜだったんだろう。長く耐え忍ぶ、つらい道のりだった。家が近くて本当によかったと思った。中学の時は、学区が遠い小学校から上がってきた子らは1時間弱歩いて通ってきてた。こんな、学校はたくさんあるような地区で、珍しいものだなと、思ったもんだった。でも、そのおかげか、行動域がぐんと広がって、地図感覚を養ったのってそのころな気がする。先日彼女と地図感覚と「上・右」でなく「北・東」って話をしたばっか。たぶんこれだよ、行動域の地図化。

高校と大学は電車通学で、とは言っても高校は近いところがいいのとラッシュに当たりたくないって理由から一駅7分下り方面。大学は親元を「少し」離れたいって理由から東京湾を巻いて1時間少々。家から駅は大通り、わりとすぐに繁華街(っていうか繁華街しかない)に突入するから粛々と早歩きで、ほとんど前と上だけしか見てなくて、時々「みんな前見て歩いて、ロボっぽいな」とブルっとなって、首を回して周りの景色を見やる程度。街路樹は確かシラカシと思うんだけど実をつけないしいつでも緑で、葉もほとんど落とさない。気温と服装と日の長さだけが季節を捉える頼り。歩道の道幅は広いけれど、もう、通学路は一筋の線だ。

唯一、高校の帰り道、校舎が駅から30分ほど登った場所で、駅との主だった道は右巻きと左巻きにゆく2通りだった、ただ、アルペンと呼ばれる駅方面直滑降ルートがあった。勿論斜面ではなく階段で、駅まで降りられるわけでなく、道のりとしては5分の1程度だったけど、住宅街・高速道路と、駅周辺と、遠景の高層ビル・マンション群が一望できたあのルートは忘れ難い。広かった。視界が。その直後にまた駅周辺の雑多な街並みに降りていくんだからなかなか劇的な視界の変化なんじゃなかったろうか、その衝撃は感じたことないけれど、心に残ってる人はいるのかもしらん。

いま、車を運転するようになって目に留めるのは速度表示と道路上の案内板ばかりだけれど、青い三角形(正確には五角形)(アンビリーバボーかなんかであの標識は実は、連れ去り事件の後ろ姿が元図なんだって説を観てからちょっと怖い)があれば広々と道を空けておきたいなと、この瞬間だけでなく今後ずっと意識できれば最上かと。

 

#通学路 #171220